国府八幡宮に関するメモ
国府八幡宮のリストは一般的にかなり不完全です。国府八幡宮が全く不明であるという旧国も珍しくありません。
当サイトの国府八幡宮のリストはそのほとんどが一般的に国府八幡宮とされる神社をリスト化したものですが、私の個人的な判断で国府八幡宮と断定してもよいと思った神社も加えています。
また、断定まではしないし国府八幡宮のリストには加えていないけれども、推測としてこの神社が国府八幡宮なのではないかというものもあります。
このメモではそういった神社について書き留めておきたいと思います。将来的に意見が変わるものがあるかもしれませんが(笑)、気にせず気楽にやっていきます。新たに何か発見されたり、思うところが出てくれば随時更新していきます。
また、このメモの後半では、こういった国府八幡宮の推測をする際に調べたことや、そこから発展した考察・議論を「国府八幡宮の概論的なこと」と題してまとめています。
国府八幡宮というのは当然ながら国府に存在しています。国府の場所が特定されている場合には、その範囲内で有力な八幡宮を探します。もっと簡単なのが総社が特定されている場合で、この場合には総社の近くの有力な八幡宮を探します。
なお、国府八幡宮はいわゆる一国一社の八幡宮と呼ばれるもの、旧国を代表する最上位の格付けの八幡宮を想定しています。そのほかに国分寺の守護神社が八幡宮であった場合に、一国一社の八幡宮と混同されて国府八幡宮と呼ばれるようになったケースもあるとされており、個人的にはこちらには興味はないのですが、当然ながら区別が付かずにリストに入っているケースなどもあるかもしれません。元々、国府八幡宮のリストというのは推測のかたまりのようなものなので、一般的に国府八幡宮とされる神社であっても、多くの人あるいは特定の人の推測である場合もあるかもしれませんので、あまり気にしても仕方がないです。
まず、一般的には国府八幡宮とされていないかもしれないが、個人的に断定してリストに加えた神社についてです。
■出羽国 一条八幡宮
出羽国の総社も100%確定されてはないと思うのですが、酒田市市条の当社至近距離にある六所神社が総社であるという説があります。これが正しかった場合、当社が国府八幡宮であることは明らかです。また、当社自体が総社という説もあり、その場合は国府八幡宮を兼ねていることは明らかです。
出羽国の国府の場所が時代によって変遷があったとしても、少なくともこの辺りに国府が存在した時代があった可能性は非常に高いと思われます。歴史・考古学的なことは知りませんが、国府またはその近くには総社のほかにも、一宮~六宮やその他の有力神社が存在することが多いからです。
そして、当社の北には一宮の鳥海山大物忌神社(蕨岡口の宮)、西には二宮の城輪神社が存在しており、二宮周辺の城輪柵跡が出羽国府跡とされています。より近くには式内飛澤神社もあります。
従って、この付近一帯で最有力の八幡宮である当社が出羽国府八幡宮であったことは私には断定してよいレベルに思えます。
■和泉国 泉井上神社
当社は和泉国総社として知られていますが、元々この地に祀られていた神社と総社としての機能を分離して、それぞれに社殿があります。
そして、その元々の神社というのが井戸ノ森八幡宮という八幡宮なのです。この八幡宮では和泉清水と呼ばれる霊泉を祀るともしており、これが当社名称の由来でもあり、和泉国の由来でもあると伝えられています。
当社が国府八幡宮であることは私には自明に思われます。
■出雲国 平濱八幡宮
出雲国最古の八幡宮。当社から0.6kmほどの場所に国分寺跡があり、総社である六所神社も比較的近くにあります。
これだけの条件のうえに、付近にほかに八幡宮がないので、確定でよいと思われます。
次に、断定まではしないし国府八幡宮のリストには加えていないけれども、推測としてこの神社が国府八幡宮なのではないかというものです。
国府の有力八幡宮を探すというのは面白い遊びですので、今後も随時更新していくかもしれません。古い記述を書き換える可能性もありますし、推測したことのメモ書き程度だと思ってください。
■紀伊国 八幡神社(和歌山市府中)
紀伊国の国府跡は和歌山駅の北東6kmくらいの場所とされており、ここに総社の府守神社も存在します。
この近くで八幡宮を探すと1社しか該当する神社がないのです。府守神社の西北西1kmの山腹にある八幡神社です。延喜2年(西暦902年)の創建と古く、歴史があるのもポイントです。
国府八幡宮を新たに創建するなら参拝するのが大変な山腹に建てないでしょうが、国府八幡宮の制度ができる以前の創建ですので、以前から存在していた八幡宮を国府八幡宮にしようということであれば、そういうこともあるかなと思います。
⇒ 調べてみると国府八幡宮の成り立ちの発端は意外と古く、ここは変な記述でした。そのうち削除する予定です。後述の国府八幡宮の概論を参照してください。
もし、国府八幡宮が当社でないとすれば、もうこの世には存在していないでしょう。総社の方は府守神社のほかに、この付近で最も有力な神社である大屋都姫神社(名神大社・県社)に合祀された総社神社という神社が元々総社だったという説がありますが、仮に国府八幡宮が廃絶になったのであれば、同様に大屋都姫神社に合祀になっているかもしれません。
■長門国 豊功神社
長門国の国府ははっきりしており、長府という地名に今も残っています。長府には二宮である忌宮神社、総社である惣社宮が存在しています。
この付近では八幡という名称の神社が見つからないのですが、実は隠れ八幡宮があります。それが豊功神社です。
当社の御祭神は応神天皇、武内宿禰、毛利家の歴代藩主等となっていて、元々八幡宮だった神社と忌宮神社にあった歴代藩主等を祀った境内社を合祀して創建したようです。
また、当社から望む海には満珠島・干珠島という島があって、これは山幸彦(ホオリ)が龍宮城から帰る際、無理なことを言って自分を苦しめた兄の海幸彦に仕返しをするために竜宮城の王様であるワタツミからもらった、塩満珠・塩干珠に由来していることは明らかなのですが、この地には龍宮伝説、豊玉姫信仰があったようなのです。
当社名の「豊」は豊玉姫、「功」は神功皇后(=豊玉姫)に由来していると私には思えます。
そうしてみると、本質的には応神天皇、神功皇后、武内宿禰という八幡宮において一般的に見られる配祀なのであり、当社の前身であった元々の八幡宮が国府八幡宮だと思います。
正直なところ、ここに書いたことには結構自信があって、阿波国の八幡総社両神社と同じくらいの確信度があるのですが、なぜか今のところ国府八幡宮のリストからは外しておこうということになっています。
■伊予国 石清水八幡神社
伊予国の総社は今治の伊加奈志神社とされています。
では、その近くに八幡宮があるのかと言えば、あります。もうこれしかないというくらいの八幡宮が伊加奈志神社の南東150mにある石清水八幡神社です。
本殿同士の距離は150mくらいですが、参道入口は小さな丘の反対側にあって、回り込まないと行けないと思います。
創建は貞観元年(西暦859年)。歴史もあり、境内規模もあり、国府八幡宮として相応しいように感じられます。
もし、総社が伊加奈志神社で確定なのだとしたら、かなりの確度で当社が国府八幡宮だと思います。ただ、ほかに一宮である大山祇神社の境内社である伊豫國総社とする説があるので、難しいところです。
もっとも、大山祇神社の境内社は近くにあった総社を合祀したのではなく、大山祇神社が離島にあるために二宮~六宮の参拝を容易にするためのものと考えるのが自然だと思っています。今治の中心部に別宮大山祇神社があるようなものです。これの逆バージョンが大山祇神社の境内社としての伊豫國総社でしょう。
一宮は離島にあってもよいけれども、さすがに国府は四国本土の現在の今治中心部から続く平野部のどこかでしょう。そうだとすれば、やはり国府八幡宮は当社でよい気がします。
さらに、もう少し確度の低いもの。
■加賀国 八幡神社(小松市八幡)
加賀国の総社は加賀国一宮であった時代もあったとされる石部神社です。この神社がある場所は古府町という町名になっています。
付近には比較的たくさんの八幡宮がありますが、中でも有力なのは南西1.5kmにあり、八幡という地名の由来にもなった小松市八幡の八幡神社です。
由緒書によれば、養老年間(西暦720年前後)の創建であるものの石清水八幡を勧請したのは西暦1000年以降のようで、古くは大社であったと伝えられているようです。
石部神社と当社の間には川がありますが、川幅が狭く容易に橋をかけることができると想定され、国府の範囲内としておかしくない距離感だと思います。
■但馬国 井田神社
但馬国の国府所在地は豊岡市で、山陰本線に国府という駅があり、総社とされる気多神社は国府駅の南2.0kmくらいの場所にあります。間には川がありますが、川を挟んで南北ともに国府の範囲内のようです。それを含めて、結構国府が広域にわたっているような感じがします。
総社の近くには井田神社と楯縫神社という2つの式内社があり、どちらの御祭神にも誉田別命が含まれています。
このうち、総社との距離、境内規模、八幡神の勧請時期の古さなどの観点でより有力なのは井田神社と思われます。
元々はウカノミタマを祀っていたが、嘉祥元年(西暦848年)に石清水八幡宮から勧請とのことですので、八幡宮でもあったことは間違いないようです(石清水八幡宮の創建は西暦859~860年頃とされているため、若干矛盾しています)。
元々祀っていたウカノミタマの扱いはわかりませんが、延喜式が成立した時代というのは相殿が非常に少なかったと思われます。延喜式神名帳に記載の座数と社数があまり変わらないからです。従って、完全に八幡宮となっていたかもしれません。
■阿波国 八幡総社両神社
(断定してもよいと思った国府八幡宮の項に入れていましたが、確度が低いものの項に移しました)
阿南市にある八幡神社を国府八幡宮とする説がありますが、阿南市に国府があったという情報は検索しても出て来ないため、少なくとも徳島市国府町の方が国府の所在地として有力であることは間違いないと思われます。
総社は徳島市国府町府中に存在する大御和神社と当社の両方の説があります。現在では当社は観音寺の境内にある小さな神社にすぎないので、境内規模が大きく立派な大御和神社を総社とする説のほかになぜ当社を総社とする説があるのかは不明ですが、総社も国府八幡宮も元々は単独の立派な神社があったのが廃絶になって観音寺内に祀られたということでしょう。
ほかに近隣の八幡宮を探してみますと、大御和神社の南500mに小さな八幡宮がありますが、村社か無格社かくらいの規模。もう少し範囲を広げて探すと府中駅の北1.5kmに井上八幡神社というまずまずの神社があって、一瞬これかと思ったのですが、創建を隣の井戸寺と同じ7世紀としており、勧請元の宇佐神宮よりも古いことになってしまい、情報がメチャクチャなのでこの可能性はないと思いました。
さらに離れた場所になりますが、鮎喰駅の南1.5kmに豊崎八幡宮という古社の雰囲気に満ちていてここなら納得という感じの八幡宮がありますが、直線距離は2~3kmでも鮎喰川を渡った向こう側という立地はさすがに国府の範囲外でしょう。
ただ、後で議論するように国府八幡宮は国庁から少し離れた場所にあってもよいと思われます。そして、個人サイトで見た情報ですが、一宮であった時期もあるかもしれない比較的近くにある天石門別八倉比賣神社と豊崎八幡宮の社殿は向かい合わせになっているらしいのです。鮎喰川で地形的に分断されているように思うのですが、グーグルマップの航空写真で見ると一応一続きの平野部の範囲内です。国府守護のために一宮と向い合わせに建てられたという可能性はないのだろうかと考えます。総社、一宮、国府八幡宮でトライアングルになっているように見えるのです。
何が言いたいのかと言えば、それほど豊崎八幡宮が国府八幡宮であってほしいという感じの神社なのです。
ただ、これもグーグルマップでの個人の書き込みによるのですが、神社明細帳には「往古筑前宮崎より勧請したるよし、年暦不詳」とあるそうです。筑前宮崎という地名がわかりませんし、検索しても何も出てきませんが、閃きました。筑前の筥崎宮からの勧請です。これを見て、ようやく諦めが付きました。筥崎宮は三大八幡宮とされることもありますが、一国一社八幡宮の勧請元としては創建は新しいですし、筥崎宮自体が一国一社八幡宮ではないので、可能性は低いと思います。
世の中的にもこれらの神社を国府八幡宮とする説はないようなので、元々の国府八幡宮は廃絶、それが今は八幡総社両神社として観音寺内に祀られているということでよいと思います。
前述の3社よりは確信度が低く、国府八幡宮のリストに加えるかは微妙なところかもしれませんが、現状はリストに加えています。
⇒ このように書いたのですが、色々調べるうちに断定できないと思うようになりました。断定できないものは国府八幡宮のリストから外すかもしれません。
筥崎宮の創建は新しいと書いたのですが、元宮である大分(だいぶ)八幡宮の創建が宇佐神宮とほぼ同時期の西暦726年でした。従って、一国一社八幡宮の勧請元としてあり得ると思うようになりました。豊崎八幡宮の可能性もあるような気がします。
一応、現状では八幡総社両神社を国府八幡宮のリストに載せたままにしています。
最後に、私の推測ではなく、正解がわかっているのになぜか世に知られていないもの(玄松子の記憶ほかのサイトで記載がない)。
■周防国 佐波神社(合祀)
周防国は長門国と同じく、国府所在地がはっきりしており、それが地名に残っています。それが防府です。
そして、ここにある総社が佐波神社です。
佐波神社の南東500mほどの場所に周防国衙(こくが)跡があり、その中に国庁八幡宮跡という説明書きの立札が立っているところがあります。その説明書きに「明治四十年佐波神社に合併された」とあります。
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■ 国府八幡宮に関する概論的なこと
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こういった推測をする際に、単に地図上でそれらしい八幡宮を探すというのが最初に思いつくことなのですが、より本格的に探すのであれば、国府や国府八幡宮についての理解を深めることも必要なのかもしれません。
実は「国府八幡宮」や「一国一社八幡宮」という言葉をネットで調べてみても、表面的な意味を説明するものが見つかるだけであり、その成り立ち、歴史的なこと、制度的なことなどの全貌は出てきません。
出て来ないということは、それら自体はっきりとはわかっておらず、推測になってしまうかもしれないわけですが、それでもそれらについて調べたり推測することにも意義があるでしょう。
以下に書くことは現時点で私がネットで調べたことや、そこからの推測をまとめたものにすぎないことをお断りしておきます。
国府八幡宮の成立の発端は第45代聖武天皇にあるようです。
武蔵国府八幡宮に関する説明に「聖武天皇(在位724―749)が一国一社の八幡宮として創立したものと伝えられる古社」(府中観光協会)という説明が見られます。また、相模国の平塚八幡宮に関する説明には「聖武天皇より相模国における一国一社の霊場とされた」(ウィキペディア)とあります。
聖武天皇が一国に一社ずつ第15代応神天皇を祀った神社、八幡宮をおくと決めたようです。この時、八幡宮を国府におくとまで決めたかどうかはわかりません。
八幡宮の総本社である宇佐神宮は西暦725年の創建とされており、これは聖武天皇の在位期間の2年目のことです。だから、聖武天皇の意向で宇佐神宮が創建されたのかは非常に微妙です。伝えられている歴史が全て正しいかもそもそも微妙ですが、一応、宇佐神宮の創建は聖武天皇の時代ということになっています。
宇佐神宮が存在する豊前国の国府所在地は福岡県京都郡みやこ町とされており、宇佐は国府所在地ではありませんが、宇佐神宮が創建されたのを見て、宇佐神宮の分社を全ての国の国府におこうと思ったのかもしれません。
あるいは、一国一社の八幡宮を国府におくのは単なる通例、そういう事例が多かっただけなのかもしれませんし、この辺りはよくわかっていないようです。
なお、前述の平塚八幡宮は仁徳天皇の勅願により応神天皇を御祭神として西暦380年に創建されたとされており、宇佐神宮よりも古い創建です。ただ、宇佐神宮ができてすぐの頃に、あらためて宇佐神宮より勧請を受けたという説があるそうです。
さて、聖武天皇は一国に一社ずつ八幡宮をおくということを決めたのかもしれませんが、すぐには実現しませんでした。
例えば、宇佐神宮とともに多くの八幡宮の勧請元となっている石清水八幡宮の創建は西暦859~860年頃とされています。宇佐神宮の創建から130年以上もの年月が経過しています。
だから、国府八幡宮というのがいつの時代の話なのかというのは非常に難しいのです。
私はこういったことの研究者ではありませんので、今のところはやりませんが、もし私がこのテーマの研究者だったとしたら、国府八幡宮の創建年を調べて一覧表にします。そこから見えてくることがあると思うからです。
今ここではそこまでの手間は掛けませんが、いくつかサンプルとして調べてみたところ、宇佐神宮よりも古い創建の八幡宮がいくつもあってびっくりしました。だから、八幡神の勧請年と合わせて考えた方がよいでしょう。
もっとも、勧請元の宇佐神宮や石清水八幡宮の創建年と照らし合わせて明らかに矛盾しているような例も多々あるため、個別の事例の正しさはおいておいて、全体的な傾向を見るに留めるべきでしょう。
●飯香岡八幡宮(上総国)
西暦759年、国府八幡宮と定められる(西暦675年に一国一社の八幡宮として勧請は明らかに矛盾)
●日牟禮八幡宮(近江国)
西暦991年、宇佐神宮を勧請
●大井俣窪八幡神社(甲斐国)
西暦859年、宇佐神宮を勧請(石清水八幡宮と同年)
●筑摩神社(信濃国)
西暦794年、石清水八幡宮より勧請(石清水八幡宮よりも古く矛盾)
●藤崎八旛宮(肥後国)
西暦935年、石清水八幡宮より勧請
聖武天皇の一国一社の八幡宮という構想はすぐには形にならず、概ね平安時代を通して実現していったように思います。
ですから、一宮制度が形になっていったのとおそらく同時期くらいと推定できるかと思います。
このことについては調べていて少し驚きました。八幡宮というのは第15代天皇である応神天皇を御祭神とするのですから、紀元前創建などのもの凄い古社は存在しないわけです。一宮や式内社の基準では比較的「新しい」。だから、一宮制度を真似して後からできた制度のような気がしていたのですが、実はそんなことはなかったわけです。
非常にざっくりとはいえ、このような時代感を持っておくことは必要です。創建が新しすぎる八幡宮は国府八幡宮の候補から外すことができるかもしれないからです。
一宮制度と同様に、国府八幡宮もある程度の長い間生き残ってきたものですから、ある時代の断面図で考えることはよくないでしょう。時代によって国府が移転したかもしれませんし、そのほかの変遷もあるかもしれません。しかし、それでも創建年は国府八幡宮の比定において重要な要素の1つと言えます。
なお、ネットで国府について調べると、そもそも奈良時代から平安時代までの国庁所在地とのことです。その後も明治になるまで律令国は存続しますので、鎌倉時代以降の国庁またはそれに相当するものの所在地は国府ではないのかという疑問があり、本稿執筆時点では解決しておりませんので、いったんこの問題はおいておきます。
ただ、そうであれば、鎌倉時代以降に創建された八幡宮はそもそも国府八幡宮ではないということになります。一宮と同様に、鎌倉時代以降に国府八幡宮に相当する神社の入れ替わりがあってもよいですし、それは興味の対象でもありますし、実質的な国府八幡宮ということでよいと思いますが、一応、本来の狭義の国府八幡宮は平安時代までに創建されていないとおかしいということになります。
播磨国の国府八幡宮は一般的に男山八幡宮とされていますが、創建は西暦1345年となっています。ですから、本当に国府八幡宮なのかは疑問の余地があります。仮に後の時代に国府八幡宮となったのだとしても、平安時代には別の国府八幡宮が存在したのではないでしょうか。
そういった観点で疑問を持ち、周辺でほかに相応しい八幡宮はないのかと探します。例えば、播磨国五宮とされることもある高岳神社はどうでしょうか。御祭神には応神天皇、仲哀天皇が含まれます。創建年は不明ですが、西暦782年に征夷大将軍坂上田村麻呂が幣帛を奉ったとありますので、それ以前のようです。
もちろん断定はできないのですが、より国府八幡宮に相応しいのは私には高岳神社に思えます。
ただ、そうなると今度は距離感の問題が出てきます。国庁は中心的な役所、国衙は役所群、国府は国衙の所在地の街で役人等の住居等が存在していた街全体という感じですが、国府はどのくらい広かったのかという問題が出てきます。
これは国ごとにさまざまなようですが、武蔵国の場合には東西約2.2㎞、南北約1.8㎞の範囲に住居跡が見つかっているということです。
あとは、実際に国庁、国衙、総社、国府八幡宮、国分寺などの所在地がわかっている事例から、どのくらいの範囲内であれば現実的にありえるのかの距離感を持つことになります。
これには結論はないのですが、今のところ私には3km以内くらいという距離感があります。国庁や総社から3kmくらいであれば国府八幡宮の候補として可能性はあるかなと思います。ただし、国分寺は国によっては少し離れた場所にあることも比較的多い印象で、より重要なのは国庁や総社との距離感です。
もちろん、3kmというのはそういう事例が多いという印象から持った感覚的なものであり、それ以外の可能性を排除するものではありません。そもそも、国府近くに存在しなければならないのかという問題もあります。
地形的な問題もあるかもしれません。国府は基本的に一続きの平野部でしょうし、渡るのが大変なくらいの大きな川の向こう側はおそらく国府ではないでしょう。
ちなみに高岳神社は姫路城から直線距離でちょうど3kmくらいで、ぎりぎりありえるかなくらいの距離感です。
もっとも、国府八幡宮は総社ほど国庁の近くになくてもよい気がします。国府の中心部になくてもよい気がします。国司をはじめとする役人達や神社関係者は総社には日常的に参拝するかもしれませんが、国府八幡宮はそうではないでしょう。
また、一国一社の八幡宮は本当に国府になければならないのか問題もあります。
結局、こういった問題の回答は世の中に存在しておらず、誰にもわからないわけですが、以上のような創建年・勧請年といった時代の観点、国府の大きさ・範囲といった観点等を総合して国府八幡宮の候補社を探していくことが必要になるかと思います。
具体例として、一般的に不明とされる伯耆国の国府八幡宮を考えてみましょう。
伯耆国の国府は倉吉市、現在の倉吉駅から西南西6.4kmくらいのところです。総社は国庁跡から至近距離にある国庁裏神社です。
しかし、この周辺には八幡宮がないどころか、ほかの神社も全く見つかりません。一番近くにあるそれらしい神社は東南東2.7kmにある倉吉八幡宮です。
一応、国庁跡から続く平野部にあり、途中に2つ川を挟みますが、どちらも川幅が狭く地形的に分断されている感じはありません。
グーグルマップで神社の画像を見ると、かなり良い感じの神社であり、国府八幡宮であってもおかしくない印象を受けます。
ただ、倉吉八幡宮について調べてみると元々生田という場所にあったのが明治になって遷座したのだそうです。生田がどこにあるのかと調べますと、すぐ近くにありました。元々の鎮座地は国庁跡から見て2つ目の川の手前であり、少し近くなります。国庁から約2.3kmの距離です。
距離や地形からの観点では可能性はある感じです。
しかし、創建年の観点からは、とたんに可能性が低くなってしまいます。
そもそも明確にはわかっておらず、複数説があるそうですが、古い方の説でも創建は西暦1486に石清水八幡宮を勧請ということなので、国府八幡宮としては新しすぎると思います。
創建が詳らかでない場合に、思ったよりも古いという可能性はあるのでしょうか。可能性はゼロではないかもしれませんが、ここまでの調査により国府八幡宮が倉吉八幡宮である可能性は低くなりました。
周囲にはほかに候補となる神社は現存していなさそうです。
このような場合、非常に多くのケースで総社またはその他の有力な神社に合祀になっていると思います。
比較的近年合祀されたケースとしては周防国の佐波神社がありました。
伯耆国の場合には国庁裏神社の周辺にはほかに有力な神社はありませんので、国庁裏神社に合祀になっていることが考えられます。
ですから、今度は国庁裏神社を調べます。そうすると、大正時代にたくさんの神社を合祀していることが判明しました。
その中で、村社和田神社と村社東谷神社の御祭神が品陀和気命となっています。和田や東谷は地名として残っていないみたいですので、さすがに、それらの神社の鎮座地までは調べが付きませんので、調査はここまでです。
結局、明確な結論は出ないですし、わからないのですが、そこそこの確率で国庁裏神社に合祀になったと推測します。
伯耆国の場合には結論が出ませんでしたが、このような観点で調査を行っていくと、もう少し高い確度で推測できる事例もあり、それがこのメモの前半で列挙したようなものであるということになります。
国府や総社との距離感の問題に戻ります。
この問題は、そもそも国府八幡宮とは何か、一国一社八幡宮とは何かという、言葉の意味論と密接に関わってきます。
一般的に国府八幡宮と一国一社八幡宮は同じものとして語られますが、言葉の定義を厳密にした方がはっきりしてよいのではないかと思います。曖昧な定義のまま論じているから、曖昧な結論になっているように見える部分もあります。
元々は聖武天皇の一国に一社ずつ八幡宮をおくという構想から始まっているとしましょう。この時、国府におくとか、国府の守護のためとか、目的があったのかもしれませんが、それはわかりません。しかし、最低限のラインで一国一社八幡宮を定義すると、次のように言えます。
●一国一社八幡宮 定義1
「聖武天皇の一国に一社ずつ八幡宮をおくという構想に基づき、各律令国において一番最初に宇佐神宮またはその分社から八幡神を勧請した神社」
国府という言葉がでてきていませんが、一国一社の八幡宮ならばこれでよい気がします。もし、国府におくという制約があるならば、次のようになります。
●一国一社八幡宮 定義2
「聖武天皇の一国に一社ずつ八幡宮をおくという構想に基づき、各律令国の国府におかれた、一番最初に宇佐神宮またはその分社から八幡神を勧請した神社」
また、先に国府八幡宮は総社ほど国庁の近くになくてもよいのではないかと書きましたが、国府守護のためという目的であれば、必ずしも国府の範囲内にある必要はなく、国府近くにあってもよいことになります。その場合、次のような定義になります。
●一国一社八幡宮 定義3
「聖武天皇の一国に一社ずつ八幡宮をおくという構想に基づき、各律令国の国府守護のために国府またはその近くにおかれた、一番最初に宇佐神宮またはその分社から八幡神を勧請した神社」
一般的に山城国の国府八幡宮は不明とされていますが、この定義1に当てはまり、定義3でも当てはまると思われるのが石清水八幡宮です。
元々の一国一社八幡宮の構想から言えば、山城国は何と言っても石清水八幡宮で決まりなのです。なぜ、世の中にそういった議論がないのでしょうか。それは言葉の意味を突き詰めて定義せずに曖昧に議論してきたからに思えます。
そして、なぜ石清水八幡宮が定義3にも当てはまるのでしょうか。
山城国府は時代によって変遷がありますが、石清水八幡宮の創建以降の平安時代では乙訓郡大山崎町にある現在の離宮八幡宮と推定されているとのことです。
石清水八幡宮は離宮八幡宮から桂川、宇治川、木津川を挟んだ対岸の山にあり、現代でもこれらの川を渡るには回り道をしなければならないくらいですから、国府に存在したとは言えないでしょう。
しかし、国府を見下ろす山の上に鎮座しているのです。国府守護という観点からは、この地が最適だとして鎮座地に選ばれた可能性が極めて高いと思います。
従って、一般的に国府八幡宮と言われているもの、より厳密には一国一社八幡宮は、「国府守護のため」はあり得るかもしれませんが、厳密に「国府に存在する」という定義はないのかなと思います。
ただ、不明であるものを言葉の定義に入れる必要はないため、一国一社八幡宮の定義としては定義1を採用するのが妥当だと思います。
では、国府八幡宮の定義はどうなるでしょうか。
●国府八幡宮 定義
「一国一社八幡宮、および、鎌倉時代以降に一国一社八幡宮に取って代わって同様の地位を得た、各律令国の国府またはその近くにおかれた八幡宮」
※ ただし、鎌倉時代以降も平安時代までの国府に相当するものを国府と呼ぶものとする。
一応、この定義であれば、播磨国の男山八幡宮も一国一社八幡宮ではないものの国府八幡宮と言える可能性は残ります。
また、播磨国の事例はそれでも本当に男山八幡宮が国府八幡宮かは疑問が残りますが、実際に国府八幡宮の地位が入れ替わった事例もあると思うのです。
相模国の国府所在地は色々な説があって統一見解はないそうですが、平塚にあった時代と、総社である六所神社が存在する中郡大磯町にあった時代があることは概ね認められているようです。
ただ、相模国府についての議論を調べてもいつの時代の話をしているのか不明なものが多かったのですが、どうやら前述の通り、国府というのはそもそも奈良時代から平安時代の国庁所在地という定義だからのようです。
私は鎌倉時代の相模国府の場所を知りたかったのですが、こういった相模国府の議論では触れられていませんでした。
つまり、鎌倉時代においては文字通り鎌倉が日本の中心であり、当然鎌倉に相模国府があったのだと思ったのですが、実は調べた限りではわかりませんでした。
私が何を言いたいかと言えば、鎌倉にある鶴岡八幡宮という存在です。
これは一国一社八幡宮の定義には当てはまりません。相模国の一国一社八幡宮は平塚八幡宮で間違いありません。
しかしながら、国府八幡宮という言い方をした場合、鎌倉時代の国府が鎌倉にあるならば鶴岡八幡宮は国府八幡宮であると言えると思うのです。
※ ウィキペディアによれば、大和国府は平城京遷都に伴って8世紀に高市郡の軽の地(橿原神宮近く)に遷ったのではないかと推測されているようで、国府はみやこにあるとは限らないようです。
以上のように、一国一社八幡宮と国府八幡宮の言葉の定義を厳密に定めて、別の概念として議論すれば話がわかりやすくなるのです。
概ねこれで問題は解決しているのですが、現在一般的に一国一社八幡宮または国府八幡宮とされる神社で、どちらの定義にも当てはまらない神社が存在します。それが伊賀国の岡八幡宮です。
現在のところ、一般的には国府八幡宮のリストに入っていることが多いため、当サイトでも国府八幡宮のリストに加えていますが、ここまでの議論における一国一社八幡宮や国府八幡宮ではありません。
伊賀国の国庁跡はJR関西本線佐那具駅の西南西0.5kmほどのところと推定されていますが、岡八幡宮は国庁から南西11kmも離れた場所にあり、何をどうやっても国府と関係しません。
国庁から2kmほどの場所に一宮である敢国神社、3kmほどの場所に二宮である小宮神社、1kmほどの場所に三宮である波多岐神社があり、11kmも離れた場所に国府八幡宮はあり得ません。石清水八幡宮のように国府守護のため少し離れた場所にという理由付けも無理です。
では、なぜ岡八幡宮が一国一社八幡宮とされるのかと言えば、鎌倉時代には今度は源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮の分社を全国におく計画を立てたのです。その計画の最初の神社として創建されたとのことです。実際には頼朝の没後に計画は頓挫して、この計画によって創建されたのは岡八幡宮が最初で最後になりました。
国府にあるわけでもなく、国府近くにあるわけでもないのですが、要するに伊賀国で最上位の格付けの八幡宮とするべく創建されたのだと思います。
国府八幡宮と呼ぶのはおかしいですので、一国一社八幡宮という言葉を使うとすれば、この岡八幡宮が当てはまる定義は次のようなものになるでしょう。
●一国一社八幡宮 定義4
「各律令国において最上位の格付けの八幡宮」
ただし、一国一社八幡宮は前述のような別の意味で使いたい言葉のため、「八幡宮の一宮」的な意味の別の言葉を当てるのが本来望ましいと思います。仮にここでは「一宮八幡宮」としておきます。
最後にまとめておきます。
国府八幡宮や一国一社八幡宮という言葉は、厳密な定義を定めないまま同じものとして扱われることが多く、また、国府に存在することが必要条件かなどの問題がありました。
しかし、次のように言葉の定義を定めて概念を明確に分離することによって、議論が容易になるものと思います。
●一国一社八幡宮 定義
「聖武天皇の一国に一社ずつ八幡宮をおくという構想に基づき、各律令国において一番最初に宇佐神宮またはその分社から八幡神を勧請した神社」
この定義であれば、山城国の石清水八幡宮も当てはまります。国府の守護を目的として国府または国府近くにおかれたことがほとんどでしたが、それが必要条件かどうかの確定は今後の課題です。
●国府八幡宮 定義
「一国一社八幡宮、および、鎌倉時代以降に一国一社八幡宮に取って代わって同様の地位を得た、各律令国の国府またはその近くにおかれた八幡宮」
後者の実例として、相模国の鶴岡八幡宮を挙げることができます。
●一宮八幡宮 定義
「各律令国において最上位の格付けの八幡宮」
実例として、伊賀国の岡八幡宮が当てはまるかもしれません。
実際にこのような制度があったわけではなく、ほとんどの場合に一国一社八幡宮か国府八幡宮でもあります。
岡八幡宮を含めるための概念ですが、岡八幡宮が唯一の例外なのであれば、そもそも一国一社八幡宮や国府八幡宮のリストから岡八幡宮を外したほうがわかりやすいかもしれません。
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■ おことわり
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本稿はタイトル通りメモであり、書籍や論文の完成原稿ではありません。
頻繁に書き直していますし、加筆・訂正もしています。
調査が進むにつれて、新たに色々なことがわかってきて、軌道修正しなければならない場合も多々あります。
しかし、私としては調べたこと、そこから判明したこと、考察・議論をいったん書き留めておく場所が必要で、それがこのメモです。
もちろん、間違いがある場合もあるでしょうし、また間違いに気づいても全てを修正するのは煩雑という場合もあります。一々訂正しない場合もありますので、予めご了承下さい。
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最終更新日 [2023.03.02]