国府八幡宮に関するメモ2
国府八幡宮が見つからない原因を考えてみますと、次のようなものが考えられます。
・廃絶したので見つからない。
・廃絶して総社などの近くの有力神社に合祀になったので見つからない。
・国府にないのに国府にあると思っているから見つからない。
明治時代の政策としての合祀推進の場合、おそらく必ず合祀先があると思います。大規模に行われたものですので、おそらく、神社を廃絶した場合の合祀の処置について指示が出ているものと思います。
それ以前に時代には神社の廃絶というものはあったのでしょうか。また、あったとして必ず合祀されたのでしょうか。
これは私が答えを知らない問題なのですが、明治時代の合祀が行われる前、日本には今の何倍もの神社があったのですから、廃絶・合祀というのは少なかったと思います。神社が増え放題増えたから合祀政策で減らしたわけですから。
それでも、ゼロというわけにはいかないでしょうから、多少はあったでしょう。その場合に合祀になったかどうかは誰にもわからないことですから、一応、総社その他の有力神社に合祀になったと推測するしか手段がないと思います。
しかし、国府八幡宮が見つからない最後の理由に関しては、調査方法や考え方を従来のものから改善することができると思うのです。
その1つが一国一社八幡宮と国府八幡宮を別の概念として、それぞれ探していくということになります。
この際、国府に存在するというのは絶対条件かどうか問題というのがあり、前のメモでは課題としていましたが、色々調べるうちに、一国一社八幡宮は国府にあることは絶対条件ではないと思うようになりました。
特に、創建時期が古い初期の一国一社八幡宮には当てはまらない場合があるように思います。
前回のメモでは、どうして一般的に石清水八幡宮が国府八幡宮とされていないのだろうという疑問から重要な発見があったのですが、いったん国府縛りを解いてみると、また色々なことがわかってきます。
一国一社八幡宮は聖武天皇の全ての国に一社ずつ八幡宮をおくという構想から始まりました。この時に、必ず国府におくとまで決めたかはわからないことです。べつに国府になくても一国一社の構想は実現できます。
この観点から国府縛りを解いて、各律令国において絶対に外せない重要な八幡宮、創建が特に古い八幡宮を調べていくと、また色々なことが見えてくるのです。石清水八幡宮を絶対に外せない重要な八幡宮と考えるようにです。国府云々よりも、こちらが絶対条件かもしれません。
例えば、宇佐神宮が存在する豊前国のお隣、豊後国がわかりやすいので、これを例としましょう。
豊後国で絶対に外せない重要な八幡宮は一宮である柞原八幡宮です。
豊後国の国府は大分駅の南1kmほどの古国府駅周辺と推測されているそうですが、国庁跡等の遺跡は見つかっていないとのことです。
柞原八幡宮はここから西北西5.5kmほどの場所にあります。国府の考えに囚われていると、これは国府の範囲内と言えるのか、国府近くと言えるのか、国府守護のためなのかとなってしまうのですが、一国一社の考えでは、それは比較的どうでもよいのです。
柞原八幡宮の創建は西暦830年であり、石清水八幡宮よりも古い時代の創建です。一宮でもあり、社格も高いのです。絶対的な存在であり、リストから外せるものではないのです。
※ その後、豊後国にはもっと古い八幡宮が存在することが判明し、柞原八幡宮も一国一社八幡宮ではないようです。
肥前国の例も見ておきましょう。
肥前国の国府は佐賀市大和町久池井で佐賀駅の北6.2kmほどの場所に国庁跡が見つかっています。一宮である與止日女神社の近くです。
この肥前国で絶対に外せない重要な八幡宮とはどこでしょうか。
それは、これも一宮とされる千栗八幡宮です。
しかし、千栗八幡宮は国府から非常に離れた場所にあります。千栗八幡宮の最寄駅は久留米であり、隣の筑後国との境界付近という立地です。国庁跡からの直線距離でも19km以上あります。
国府にはないのですから、国府八幡宮とは呼べません。しかし、一国一社八幡宮としては外せません。
千栗八幡宮の創建は西暦724年とされており、宇佐神宮創建の前年です。千栗八幡宮には創建時の有名な伝説があり、八幡神の神託によって創建されましたので、勧請元はないと思います。そして、西暦931年頃に宇佐神宮の別宮となっていますので、あらためて宇佐神宮から勧請を受けたようです。
肥前国の国府八幡宮は一般的に佐賀駅の北2km強の場所にある高木八幡宮とされていますが、高木八幡宮の創建は平安時代末期、西暦1150年前後のようです。
その時代に高木八幡宮は国府八幡宮となったかもしれませんが、一国一社八幡宮ではありません。肥前国には既に八幡宮が存在していたのですから。
ですから、一国一社八幡宮・国府八幡宮のリストを作るとなれば、以下のようになる可能性があります。
一国一社八幡宮 千栗八幡宮
国府八幡宮 高木八幡宮
国府八幡宮は時代によって変遷がある可能性があります。従って、定義上複数になるかもしれません。高木八幡宮の創建年はこのリストに載るような八幡宮としては、比較的あるいはかなり新しいので、その前の時代にも国府八幡宮が存在する可能性もありますが、ここで肥前国の国府八幡宮の比定をしたいわけではないので、この問題はおいておきます。
このような考えに基づくと、現在存在している一国一社八幡宮・国府八幡宮のリストというのは、最初から作り直しが必要なほど不完全だと思います。
いずれ全ての律令国について調査して一国一社八幡宮・国府八幡宮のリストを作成したいという気持ちもありますが、それは大事業ですので、現状ではまだまだ概論的なことを続けます。
ここで重要になるのが、当然ではありますが、候補となる八幡宮の創建年です。前のメモで創建年の一覧表を作るのはとりあえずはしないとしましたが、きちんとやるなら、全ての律令国について候補社の創建年、八幡神の勧請年を調べる必要があります。
一般的に国府八幡宮のリストに載っているような神社だけでなく、特別に重要な八幡宮、特別に創建が古い八幡宮について全て調べる必要があります。新たな発見を探しているわけですから。
この調査を始めてから知ったことですが、宇佐神宮は最古の八幡宮ではないんですね。宇佐神宮は総本社とはなっていますが、それ以前の創建の八幡宮もあります。さらには、宇佐神宮に勧請元があることも知りませんでした。
色々なことがわかってくると、それに伴って考察も深いものになっていきます。
一国一社八幡宮という構想を考えた時、宇佐神宮以前に存在していた八幡宮はそのまま採用するのが自然であり当然であるように思います。
そのまま採用というよりも、一宮と違って、誰かが認定するようなものではない気がします。正式に一国一社八幡宮として認定します、というものではない気がしますが、あくまでも推測です。
また、宇佐神宮自体が一国一社八幡宮の文脈で語られることはないように思うのですが、一国一社なら豊前国は宇佐神宮でよいと思うのです。
一般的には豊前国府がある京都郡みやこ町の惣社八幡神社がリストに入りますが、先の肥前国と同じ書き方をすれば、次のようになります。
一国一社八幡宮 宇佐神宮
国府八幡宮 惣社八幡神社
このように創建年、勧請年は重要なものですので、ここで八幡宮についての年表のようなものを作りましょう。
【宇佐神宮以前】
●西暦380年 平塚八幡宮(相模国)
仁徳天皇の勅願により応神天皇を祭神として創建
●西暦559年 誉田八幡宮(河内国)
欽明天皇によって応神天皇陵前に神廟を設置
●西暦570年 宇美八幡宮(筑前国)
神功皇后が応神天皇を産んだ地に応神天皇を祀る
●西暦604年 浪打八幡宮(讃岐国)
八幡神の神託により創建
【宇佐神宮創建の時代】
●西暦710年 鷹居神社(豊前国)
宇佐に初めて八幡神を祀る
●西暦717年 八幡神社(伊予国)
八幡浜市の八幡神社で宇佐神宮の勧請元とされる
●西暦724年 千栗八幡宮(肥前国)
八幡神の神託により創建
●西暦725年 宇佐神宮(豊前国)
●西暦726年 大分八幡宮(筑前国)
筥崎宮の元宮が創建
【宇佐神宮以降、石清水八幡宮以前】
●西暦746年 放生津八幡宮・越中護国八幡宮(越中国)
宇佐神宮から勧請して創建
越中護国八幡宮の創建年は不明だが同時期と推定される
●西暦749年 手向山八幡宮・郡山八幡神社・薬園八幡神社・高山八幡宮(大和国)
いずれも宇佐神宮から勧請して創建
●西暦750年 今山八幡宮(日向国)
宇佐神宮から勧請して創建
●西暦769年 八幡宮来宮神社(伊豆国)
一国一社の八幡宮として創建
●西暦822年 武田八幡宮(甲斐国)
宇佐神宮から勧請して創建
宇佐神宮または石清水八幡宮としているが石清水八幡宮以前のため
【石清水八幡宮創建の時代】
●西暦859年 大井俣窪八幡神社(甲斐国)
宇佐神宮から勧請して創建
●西暦859年 離宮八幡宮(山城国)
宇佐神宮から勧請して創建
●西暦859年 隅田八幡神社(紀伊国)
石清水八幡宮から勧請して創建(離宮八幡宮からの勧請か)
●西暦860年 石清水八幡宮(山城国)
離宮八幡宮を遷座
●西暦876年 日招八幡大神社(伊予国)
石清水八幡宮から勧請して創建
【八幡五所別宮】
●西暦921年 筥崎宮(筑前国)
大分八幡宮が遷座して筥崎宮となる
●西暦931年 千栗八幡宮
宇佐神宮別宮となる
●西暦931年 新田神社(薩摩国)
石清水八幡宮別宮となる
これ以降明治時代まで八幡神を祀る
●西暦931年 鹿児島神宮(大隅国)
八幡別宮となるが宇佐神宮か石清水八幡宮か不明
●西暦935年 藤崎八旛宮(肥後国)
石清水八幡宮別宮として創建
現時点で全ての律令国の八幡宮を調査しているわけではありませんので、当然ながら、網羅しているわけではないです。自分がちょっと調べてみた範囲内の年表です。
また、古い八幡宮を調べていると宇佐神宮から勧請して創建なのに宇佐神宮よりも古い創建などの矛盾が多々見られます。そういう例は特に重要なもの以外省いていますが、創建は宇佐神宮よりも古くても後から八幡神を宇佐神宮から勧請する事例は多々ありますので、創建年だけでなく八幡神の勧請年も非常に重要で、それは注意して見ています。
また、調査した範囲内でも上記以外に古い八幡宮はたくさんありますが、重要でないと思ったものは省いています。
さらには、古い八幡宮として語られることがある神社のうち、香椎宮、創建当時の鹿児島神宮は、私の目から見ると八幡宮ではないので省いています。
まず、香椎宮は彦火火出見と豊玉姫の廟として創建されたものが、後に神社化したとのことです。
また、鹿児島神宮は後に九州の八幡五所別宮として八幡別宮となりますが(宇佐神宮か石清水八幡宮か不明)、元々はやはり彦火火出見と豊玉姫を祀ります。現在でも、この二柱が主祭神であり、八幡神は相殿となっています。
八幡神とは何かという話になってしまいますが、第15代天皇である応神天皇または誉田別命が含まれていなければ八幡神ではありません。
八幡宮の祭神としては、応神天皇、神功皇后、比売大神、玉依姫、仲姫、仲哀天皇、仁徳天皇、武内宿禰などがあり、応神天皇を含むのであれば、どのような配祀であっても八幡神として呼ぶことができます。
しかし、応神天皇が祭神に含まれていない配祀、例えば香椎宮や鹿児島神宮のような配祀では八幡神と呼びません。
これは私にとっては議論の余地がないことであり、理由を聞かれても困ってしまうのですが、神様との対話によって正解を知っているからということになります。
これについて話すとスピリチュアルな話が避けられないのですが、次のようになります。
第14代仲哀天皇 = 彦火火出見の地球上への降臨
第14代仲哀天皇の皇后である神功皇后 = 豊玉姫の地球上への降臨
第15代応神天皇 = ある天津神の地球上への降臨
第15代仲哀天皇の皇后である仲姫 = ある天津神の地球上への降臨
第16代仁徳天皇 = ある天津神の地球上への降臨
比売大神は宗像三女神であり、武内宿禰もある天津神の地球上への降臨です。「ある天津神」と書いたものも私は全て正解を知っていますが、現時点では書けません。ここではこれ以上の深入りを避けます。
歴史的に宇佐神宮と鹿児島神宮の間で、どちらが正統な八幡宮かを巡る争いがあったとされます。これがいつの話なのかわかりませんが、応神天皇を含まない配祀で正統な八幡宮というのはあり得ません。ただし、これまでに書いたように、宇佐神宮以前にも八幡神を祀った例はいくつもあり、鹿児島神宮も応神天皇を配祀に含めていれば、宇佐神宮よりも古くから存在する八幡宮ということは名乗れたと思います。
鹿児島神宮は宇佐神宮への対抗意識から正八幡宮(しょうはちまんぐう)と名乗ります。現代では、正八幡宮と言った場合、2つの意味があるように思います。
1つは鹿児島神宮のこと、またはその分社のことです。そして、その場合の本来の御祭神は彦火火出見と豊玉姫ということになります。彦火火出見は前述のように第14代仲哀天皇と同一だと思ってよいです。第14代仲哀天皇を中心に祀るのが正八幡宮です。ただし、応神天皇は含みません。応神天皇が含まれるなら普通の八幡宮です。
八幡神の中心となる第15代応神天皇の御子である第16代仁徳天皇を祀る神社は若宮八幡宮と呼びますね。それとの対比で、父親である第14代仲哀天皇を祀るのが鹿児島神宮的な意味での正八幡宮です。当事者である鹿児島神宮がそう思っているかは知りませんが。
もう1つの正八幡宮の意味は、若宮八幡宮との対比で、若宮八幡宮ではない普通の八幡宮を指して正八幡宮と呼ぶことがあります。現代ではこの事例の方が圧倒的に多いように思います。名称が正八幡宮となっていても御祭神は応神天皇の場合の方が圧倒的に多いと思います。もしかすると、元々は鹿児島神宮的な正八幡宮だったのが後から応神天皇を祀るようになったのかもしれませんが。
若宮八幡宮が本来の八幡宮でないように、鹿児島神宮的な正八幡宮も本来の八幡宮ではないということになります。
なお、ウィキペディアの鹿児島神宮の項に、正八幡と呼ぶ根拠的なものとして鎌倉時代の八幡愚童訓という八幡神について書いた資料が紹介されていますが、そこに引用されている話はメチャクチャな作り話であり、読むに値しないようなものです。
さて、年表に戻ります。
宇佐神宮以前にも八幡宮というのは存在していたのですから、前のメモの一国一社八幡宮の定義は若干修正する必要があります。宇佐神宮またはその分社から勧請とは限らないからです。また、宇佐神宮自体を一国一社八幡宮とするためにもです。
そして、宇佐神宮以前から存在する八幡宮、宇佐神宮と同時期に創建された八幡宮は国府にあるとは限りません。その国には既に八幡宮が存在しているのですから、すぐに国府にも創建しなければとはならないでしょう。後々、国府にも八幡宮が創建されるでしょうが、それはその国の最初の八幡宮とは別の話です。
まず、年表から初期の時代は一国一社八幡宮が国府にあるとは限らないことがわかります。
そして、これはもう少し続くのです。次の時代を見てください。
西暦750年に宇佐神宮からの勧請によって日向国に今山八幡宮が創建されるのですが、鎮座地は延岡市です。これが私にとって大発見でした。
日向国の国府所在地は西都市であり、ここには二宮である都萬神社や総社の三宅神社があるのですが、いくら探しても八幡宮がありません。名称に八幡が含まれない神社も含めて、手当たり次第に調べたのですが、全然見つかりません。
この創建年、勧請年を調べる作業をするまでは、二宮か総社に合祀になったのだろうなと思っていました。しかし、違うのです。
日向国は八幡宮が少ない国で、西都市で探しても見つからないどころか、国中探しても目ぼしい八幡宮はそんなにありません。
しかし、グーグルマップで日向国全域からそれらしい八幡宮を探して創建年、勧請年を調べます。この日向国の調査を例として書いておきます。
●宮崎八幡宮(郷社) 宮崎市
西暦1050年、宇佐神宮より勧請
●富田八幡神社(郷社) 児湯郡新富町富田東
西暦936年、宇佐神宮より勧請
●本庄八幡宮(郷社) 東諸県郡国富町本庄
西暦831年、宇佐神宮より勧請
●衾田八幡宮(郷社) 東諸県郡国富町三名
西暦830年、勧請元不明だが時期から考えて宇佐神宮から勧請と思われる
●的野正八幡宮(郷社) 都城市山之口町富吉
西暦710年創建と古いが鹿児島神宮からの勧請
現在は応神天皇ほか通常の八幡宮の配祀
●今山八幡宮(県社) 延岡市山下町
西暦750年、宇佐神宮より勧請
こんな風にして調べていき、ついに見つけたのです。今山八幡宮を。
日向国最初の八幡宮、一国一社八幡宮は高い確度で今山八幡宮です。
私は個人的に参拝経験があるのですが、その時には全くそのようなことは思いませんでした。
次に、西暦769年、伊豆国に八幡宮来宮神社が創建されます。伊豆国の国府は三島と推定されていますが、八幡宮来宮神社の鎮座地は伊東市で、全然違う場所にあります。
さらに、西暦822年、甲斐国に武田八幡宮が創建されます。甲斐国の国府は確定されておらず、また変遷がありますが、平安時代においてはいずれも八代郡または笛吹市と推定されています。しかし、武田八幡宮の鎮座地は韮崎市であり、やはり全然違う場所にあります。
このように、宇佐神宮創建後であっても比較的初期の頃の一国一社八幡宮の鎮座地は国府またはその近くとは限りません。
もちろん、国府またはその近くに一国一社八幡宮をおく事例もたくさんあります。
前回のメモに書いたように、離宮八幡宮は国府にあり、それを遷座した石清水八幡宮も国府を見下ろす山の上に鎮座していますので、国府近くにあるとは言えます。
年表に記載の神社で言えば、例えば、西暦746年の放生津八幡宮、西暦931~935年の新田神社、鹿児島神宮、藤崎八旛宮は国府またはその推定地かその近くにあると言えます。
後の時代になればなるほど、国府またはその近くに八幡宮をおく例が増えていき、最後にはそれが通例化すると思われますが、これがいつ頃の話なのかはわかりません。全ての律令国について調べる大規模な調査が必要かもしれません。
年表の西暦749年の手向山八幡宮に注目です。これは東大寺の守護神社です。そして、東大寺は全国の国分寺の総本山となる総国分寺です。
ここで国分寺の守護神社としての八幡宮という概念が登場したわけです。
前のメモでこれには興味がないと書いたのですが、それゆえに一国一社八幡宮、国府八幡宮と区別するための区分が必要とも言えます。区別せずに曖昧に扱うから、結果として曖昧になる面があります。
もし、これが一国一社八幡宮や国府八幡宮と一致しているのであれば、特に言及する必要もないのかもしれませんが、それらとは別に国分寺守護の八幡宮が存在している場合、本来の一国一社八幡宮や国府八幡宮ではないことを明示する意味で別の言葉を用意しましょう。
これを国分八幡宮(こくぶはちまんぐう)と呼ぶことにしましょう。
西暦749年の大和国の例で言えば、手向山八幡宮が国分八幡宮。手向山八幡宮、郡山八幡神社、薬園八幡神社、高山八幡宮は同時期に創建されているので、全て一国一社八幡宮と言えるでしょう。このように一国一社とは言っても創建が同時期の複数の八幡宮がある場合には、どちらも一国一社として扱うしかないでしょう。一宮と同様に、1つの律令国に複数の一国一社八幡宮もあり得るわけです。
同様に、年表の1つ前、放生津八幡宮と越中護国八幡宮についても、前者を国分八幡宮、後者を一国一社八幡宮とするようです。
後者は神社名称自体が一国一社八幡宮とも呼ばれていて、私はこの名称で記憶していたのですが、現在では公式サイトやウィキペディアでは越中護国八幡宮としています。
放生津八幡宮の方が国府に近い場所にあるため、越中護国八幡宮は一国一社八幡宮ではあるが、国府八幡宮ではないということになります。
国分寺を全ての律令国におくというのも、実は聖武天皇が始めたことです。つまり、聖武天皇は一国に一社ずつ八幡宮と国分寺をおくという政策を推進したことになります。
同時期に始めたことだから、一国一社八幡宮、国府八幡宮、国分八幡宮が混同されやすく、あまり明確に区別されてこなかったという面があるように思います。
さて、この3つの概念を明確に区別することによって、一般的に言う国府八幡宮のリストを最初から作り直す下地が整いました。
あとは日向国の調査例で示したようなことを全ての律令国についてやっていけば、それなりのリストにはなると思うのです。
一国一社八幡宮については、定義上確実に一社定まるように見えるかもしれませんが、大和国のような例外もありますし、豊前国の最初の八幡宮は鷹居神社だなどということになれば宇佐神宮がリストから外れてしまうことになりますから、一宮のリストにも見られるように、複数の神社を並列表記する場合もあるでしょう。
筑前国についても、最初の八幡宮は宇美八幡宮かもしれませんが、筥崎宮の元宮であり、宇佐神宮の本宮とされることもある大分八幡宮をリストから外すのは望ましくないため、ここも並列表記するのがよいと思います。
それから、議論の下地は整ったものの、それでもやはり不明という場合も当然あるでしょう。可能性のある八幡宮が複数存在する場合であれ、廃絶になって近くの有力神社に合祀になったと推測できる場合であれ、断定できないものがでてきます。
この場合、今度は式内社の世界から論社という概念を借りてくるのがよいと思います。
前のメモに書いた阿波国の例で言えば、八幡総社両神社のほかに、私なら豊崎八幡宮も論社として挙げたいと思います。人によっては、井上八幡神社も論社となるのかもしれませんし、それでも構いません。
論社という概念によって、可能性のある候補社を並列表記できるようになり、それがまた議論のベースになっていくからです。
なお、世間一般における式内社に関する「比定社」「論社」という言葉の使われ方は曖昧であり、メチャクチャであり、私は好きではありません。
比定社: 比較調査の結果、本物の一国一社八幡宮、国府八幡宮、国分八幡宮として断定できるもの、あるいは確度の高いもの。
論社: 比定社が決定できない場合における、一国一社八幡宮、国府八幡宮、国分八幡宮である可能性が考えられる候補社。
これが、ここでの比定社、論社の定義であり意味です。
以上により、一国一社八幡宮、国府八幡宮の比定作業を行ううえでのベースができたと思います。あとは各律令国ごとの細かな調査になっていきます。今後、私自身がどこまでやるかはわかりませんが、国府八幡宮を探してみることや、今回のメモの作成、そのための調査などはとても面白い作業でした。
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■ おことわり
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本稿はタイトル通りメモであり、書籍や論文の完成原稿ではありません。
頻繁に書き直していますし、加筆・訂正もしています。
調査が進むにつれて、新たに色々なことがわかってきて、軌道修正しなければならない場合も多々あります。
しかし、私としては調べたこと、そこから判明したこと、考察・議論をいったん書き留めておく場所が必要で、それがこのメモです。
もちろん、間違いがある場合もあるでしょうし、また間違いに気づいても全てを修正するのは煩雑という場合もあります。一々訂正しない場合もありますので、予めご了承下さい。
【関連記事】国府八幡宮に関するメモ
【関連記事】国府八幡宮に関するメモ3
最終更新日 [2023.03.11]