国府八幡宮に関するメモ3

全ての律令国について、一国一社八幡宮あるいは国府八幡宮の候補となる神社の由緒や創建年などの調査を行い、その結果を「一国一社八幡宮・国府八幡宮の調査・研究」としてまとめました。

これは調査結果を表形式にするために、各八幡宮についての必要最小限の情報と律令国ごとの簡単なコメントしか書けなかったのですが、その調査の過程でわかってきたこと、考察したことなどが当然あり、ここでは「一国一社八幡宮・国府八幡宮の調査・研究」に書ききれなかったトピックについて扱います。

●鎌倉時代以降の国府八幡宮
●一国一社の意味の変化
●由緒書の矛盾: 宇佐神宮以前に宇佐神宮から勧請
●八幡宮の歴史(再)


■ 鎌倉時代以降の国府八幡宮


前のメモで国府は平安時代までの国庁所在地のことと書きました。では、鎌倉時代以降はどうなってしまったのかというのが疑問だったのですが、これについてです。

鎌倉時代になったからといって、それまでの国府が町ごと消滅するわけないですから、しばらく、あるいはその後も長く町としての国府は存続することが多かったと思います。

ただ、国司に代わって守護の権力が増大していき、守護所というのができます。守護の居住地です。これが重要になってきて、国府・国衙から守護所に移行する感じですが、守護の交代とともに守護所も新しくするのが普通だったとのことで、国府所在地と違って一々全ての守護所も追えないですし、守護所がそれまでの国府にあることもあったと思います。

さらにその後、戦国時代になると城を中心とした城下町に移行していくという感じだと思うのですが、守護所も城下町も平安時代までの国府のような明確な概念ではなくなってしまったということでしょう。

私は歴史の専門家ではないですし、これ以上調べたいわけではないのでこれくらいにしますが、鎌倉時代以降は国府八幡宮という概念も明確に定義できなくなってしまったのです。

ですが、その国の政治的な中心地のようなところで、その国の権力者が崇敬していたような国府八幡宮相当の神社がある場合があります。

もし、これが必要な概念であれば、これを通常の国府八幡宮とは区別して、中世国府八幡宮としたいのです。

前のメモで播磨国の国府八幡宮とされることがある男山八幡宮は創建が新しすぎるから本来の国府八幡宮ではないと書きましたが、姫路城の守護神社なので、中世国府八幡宮なのかもしれません。

このような神社は全国的にいくつかはあります。定義が曖昧ですし、本来の国府八幡宮ほど興味はないのですが、一応中世国府八幡宮という区分を採り入れることでこの問題は解決とします。



■ 一国一社の意味の変化


一国一社八幡宮の定義を厳密にしたことによって、これまで一国一社とされてきた八幡宮がリストから漏れてしまうという事態が発生しました。

一国一社という概念は、聖武天皇の「一国に一社ずつ八幡宮をおく」という構想から始まっていると何度も書いてきました。

聖武天皇の時代には、まだほとんどの律令国に八幡宮が存在しなかったのですから、その国で最上位の格付けの八幡宮という意味であるはずがありません。

まずは、八幡宮が存在していなかった国にも一社ずつ八幡宮を創建しようということなのです。

しかし、後々、明らかにこれと違った意味で一国一社と言われるケースがでてきました。

例えば、上野国一社八幡八幡宮は社名の通り一国一社を名乗っています。しかし、上野国で最も古い八幡宮でもありませんし、国府にあるわけでもありません。一国一社と呼ばれたのが本当だったとして、これはどういう意味なのでしょうか。

おそらくは、「一国でただ一社にしか与えられない特別な地位の八幡宮」という意味と思います。

確かに、こういう意味で一国一社と呼ばれた八幡宮もあったのだと思います。あるいは、中世以降はそれが通常の意味に変化したのかもしれません。ただ、定義が難しいですし、天皇が一国一社と認めたか、その国の権力者とか役所がそう認めたか、世間でそう呼ばれたかということになりそうですが、それが本当かの確認手段も難しいです。

必要であれば、前のメモで仮に「一宮八幡宮」と名付けたような呼称を用意すればよいでしょう。慣れ親しんだ一国一社という言葉を入れるなら、一国一社認定八幡宮とか一国一社八幡宮認定社とかでしょうか。天皇が認めたか、その国の権力者が認めたか、世間が認めたかという意味で。

ただ、複雑になりすぎますので、私の作成したリストではこういった八幡宮は省いてしまいました。

六甲八幡神社、下野國一社八幡宮、上野国一社八幡八幡宮とかです。

従来の国府八幡宮のリストがかなり不完全であったり、国府八幡宮に関する調査・研究が進まないのは、単純に探し当てることが難しいという面もありますが、用語や区分を明確にせずに、曖昧なまま一国一社とか国府八幡宮という言葉を使ってきたからでもあります。

結局、5つの区分が必要になりました。

・一国一社八幡宮
・国府八幡宮
・中世国府八幡宮
・国分八幡宮
・一国一社認定八幡宮

私のリストではこのうちの上2つについて扱い、ほかは網羅しなくてもよいかなと思っています。



■ 由緒書の矛盾: 宇佐神宮以前に宇佐神宮から勧請


今回の調査において、さまざまな八幡宮の由緒を調べましたが、とにかく宇佐神宮の創建(725年)以前の創建としているのに宇佐神宮から勧請したとかいう由緒が多いのです。もちろん、石清水八幡宮についても同様のケースはあります。

これは何なのかという話になります。考えられる理由は以下の様なものでしょうか。

1)由緒がデタラメ。例えば、古くから存在している神社に見せかけるために適当に由緒を創作した。

2)勧請元の八幡宮がわからず、古い時代なので宇佐神宮だろう、その時代には宇佐神宮しかないだろうと推測して、後の時代に由緒書に「宇佐」を追加した。

3)本当に宇佐神宮から勧請したが、年代が間違っている。もっと後の時代に宇佐神宮から勧請した。

4)本当に宇佐神宮から勧請したし、年代も間違っていない。私の考えが間違っている(笑)。

最初は1)のデタラメな由緒として扱っていたのですが、色々調べるうちに、そうとも言い切れないと思うようになっていきました。宇佐から勧請は間違いとしても、その他は信憑性があると思うケースがいくつもあったためです。

今回の調査のように、全ての律令国について大規模な調査を行うと、さまざまな共通点などが見えてきて、由緒の信憑性が高いか低いかが少しはわかる場合が多くなってきます。

例えば、大宝元年(701)に創建された八幡宮が全国的に存在します。古い八幡宮の創建年において、大宝元年はメジャーな年なのです。なぜ、そうなるのかは後述します。

だから、大宝元年創建としている場合、たとえそれが宇佐神宮の創建(725)よりも古いのに宇佐神宮から勧請としていたとしても、通常のケースよりは信憑性が高いのです。

そのようなケースでは、宇佐から勧請ということ以外は正しいのではないかと推測します。

2)の理由と連動するのですが、由緒書を読んでいると、神社というのは宇佐神宮なり石清水八幡宮なりのどこかしらから勧請することによってしか創建できないという思い込みが見られるケースもあります。

後で「最初の八幡宮」というのがでてきますが、「最初の八幡宮」はどこからも勧請できないのです。勧請によってしか神社を創建できないとしたら、最初の神社は創建できません。

そうではないのです。八幡神が神託によって、霊夢であろうが、奇瑞であろうが、インスピレーションであろうが、何らかの方法で祀るように指示した場合、神札や御幣のような依り代なり神宝や特別な石のような御神体なりを用意して、できれば社殿も用意して、拝んでいれば神が宿るのです。それが神からの指示なのですから。

でも、勧請によってしか神社を創建できないと思いこんでいると、由緒書にはきちんと勧請元を書かなければならないし、わからないけど「宇佐」だろう、ということが起こるかもしれません。

ただ、デタラメな由緒なのか、宇佐から勧請という部分だけが間違っているのか、勧請した年代が間違っているのかという判断は一般的にはできませんから、由緒書の内容の信憑性は下がりますし、多くの場合には宇佐神宮以前としているけれども宇佐神宮以降かもしれないと思うほかありません。

4)のように宇佐神宮は創建されていないけれども宇佐から勧請というのはあり得るのでしょうか。571年に始めて八幡神が宇佐に示現したとされています。今の宇佐神宮境内の菱形池に現れたとされます。

※ 関係ないですが、熊本にも八幡神が示現したとする菱形池と、菱形八幡宮というのがあります。

八幡神が示現しただけで神社がないのに、宇佐から勧請ということが可能なのでしょうか。

八幡神が神託において「宇佐の」「石清水八幡宮の」などと名乗ることはあります。その方が相手にわかりやすいからです。でも、そう名乗ったからといって、直接的に祀ったのであれば、勧請とは言いません。

そういう、八幡神が「宇佐の八幡大神」と名乗ったことが宇佐から勧請などと混同されるケースもあるのかと思うのですが、やっぱり判定できませんので、由緒全体の信憑性が下がってしまうという結論にならざるをえないのです。



■ 八幡宮の歴史(再)


今回の大規模な調査の結果、似た由緒の八幡宮、同じ創建年代の八幡宮が複数あったりすることがわかってきました。どうしてそういうことが発生するのかと言えば、例えば、歴代の天皇が八幡宮創建の勅命を出すことが何回かあり、その直後にいくつもの八幡宮が創建されるようなことがあったからです。

そういう面を踏まえて、前のメモでもあった八幡宮の歴史について、再度書きます。一国一社八幡宮や国府八幡宮以外の話もありますが、それも含めた八幡宮の歴史です。


【応神天皇崩御後/日本最古の八幡宮】

まず、西暦310年の応神天皇崩御後すぐに創建された八幡宮が2社あります。これが最古の八幡宮です。

●西暦310年 福地八幡宮(甲斐国)
応神天皇の御子の大山守皇子が神功皇后の遺品を神宝として応神天皇を祀り福地軽島大神宮とする。

●西暦310年 葦守八幡宮(備中国)
応神天皇妃の兄媛の兄とされる御友別が天皇を偲んで葉田葦守宮を創建する。


【仁徳天皇】

●西暦377年 久津八幡宮ほか(飛騨国)
凶賊追討のために飛騨国内に応神天皇を祀る八幡宮を8社創建(1社不明)。勅命かは不明。

●西暦380年 平塚八幡宮(相模国)
仁徳天皇の勅命により応神天皇を祭神として創建する。


【欽明天皇】

●西暦559年 誉田八幡宮(河内国)
欽明天皇によって応神天皇陵前に神廟を設置する。

この後かほぼ同時期に、欽明天皇は諸国の神功皇后ゆかりの地に八幡宮を創建するよう勅命します。

●西暦562年 木本八幡宮(紀伊国)
神功皇后・武内宿禰が三韓征伐後に当地に造営された頓宮跡に562年に芝原八幡宮として創建する。

●西暦570年 宇美八幡宮(筑前国)
神功皇后が応神天皇を産んだ地に応神天皇を祀る。

このほか、この時期に欽明天皇の勅命によって創建された、または八幡神を勧請した可能性があるのは、百舌鳥八幡宮、泉井上神社(以上和泉国)、廣八幡宮、野上八幡宮、安原八幡神社、小川八幡神社(以上紀伊国)。

宇美八幡宮の創建は次の敏達天皇の御代になりますが、欽明天皇の意向が受け継がれたと考えます。


【敏達天皇】

敏達天皇の勅命で2社の八幡宮が誕生しています。

●西暦571年 位登八幡神社(豊前国)
敏達天皇の勅命により応神天皇を合祀。

●西暦584年 篠崎八幡神社(豊前国)
敏達天皇の勅命により創建時から八幡神を祀る。


【天武天皇】

天武天皇の白鳳年間に勅命により創建された八幡宮が何社かあります。宇佐神宮創建以前に宇佐神宮から勧請などという由緒の場合もありますが、ここでは無視します。

●西暦675年 飯香岡八幡宮(上総国)
●西暦675年 中村八幡宮(下野国)
●西暦675年 亀山八幡宮(肥前国)
●西暦677年 厳原八幡宮神社(対馬国)
●西暦673-685年 八幡宮(三河国)

このほか、一国一社八幡宮・国府八幡宮のリストでは論社扱いとした八幡宮や、リストに乗っていない八幡宮でも白鳳年間創建という由緒は多いのです。


【文武天皇】

文武天皇は勅命を出したかわかっていません。しかし、701年に創建された八幡宮がいくつかあります。

●西暦701年 大宝八幡宮(常陸国)
●西暦701年 八幡神社(越前国)
●西暦701年 鴻八幡宮(備中国)
●西暦701年 新庄八幡宮(備中国)

唯一、由緒に勅命とあるのが次のものです。

●西暦701年 福地八幡宮(甲斐国)
文武天皇の勅命により福地八幡大神と改称。

だから、推測として文武天皇の勅命なのかなと考えます。


【聖武天皇】

そして、いよいよ一国一社の構想を推進した聖武天皇です。宇佐神宮の創建は聖武天皇の在位2年目のできごとなので、宇佐神宮が聖武天皇の意向で創建されたかまではわかりません。ただ、勅命があった場合に、わりと直後に創建されている印象があります。文武天皇の御代で創建年が西暦701年で揃っているようにです。数年かけて大社を建てるというよりは、規模はともかくすぐに祀っている印象があるのですが、その辺りは不明です。

●西暦725年 宇佐神宮(豊前国)

宇佐神宮の創建と前後して、一国に一社ずつ八幡宮を創建する旨の勅命を出したと思います。宇佐神宮創建後の話なのか、それともこの勅命による最初の八幡宮が宇佐神宮なのかは不明です。

ただ、すぐに全国的に実現されたわけではありません。この時期に創建された八幡宮を挙げておきますが、それが勅命の直接的な効果によるものかはわかりません。

●西暦726 大分八幡宮(筑前国)
●西暦724-729 綱分八幡宮(筑前国)
●西暦729 奈多宮(豊後国)
●西暦729 狩山八幡宮(出雲国)
●西暦729-748 府八幡宮(遠江国)
●西暦729-749 下御領八幡神社(備後国)
●西暦729-749 越中護国八幡宮(越中国)
●西暦746 放生津八幡宮(越中国)

明確に聖武天皇の影響と言えるものはこれです。

●西暦749年 手向山八幡宮(大和国)
●西暦749年 郡山八幡神社(大和国)
●西暦749年 薬園八幡神社(大和国)
●西暦749年 高山八幡宮(大和国)
●西暦749年 御津宮(摂津国)

聖武天皇は全ての律令国に国分寺をおくことも推進しており、全国の総国分寺である東大寺の守護八幡宮として手向山八幡宮が創建されますが、宇佐神宮の神霊を乗せた神輿が途中で数ヶ所に寄って、同時に5社の八幡宮が誕生しています。

この、1回の勧請において神輿が複数ヶ所に立ち寄って複数の八幡宮が創建されるというのは後でも出てきます。


【和気清麻呂】

聖武天皇の後、これからいよいよ全国的に八幡宮が創建されるのかということなのですが、意外なことにそうはなりません。聖武天皇の後は八幡宮の創建に関して重要な役割を果たした天皇がいないのです。

むしろ、それまでの時代の方が、仁徳天皇、欽明天皇、敏達天皇、天武天皇、文武天皇という歴代天皇が八幡宮の創建に大きく関わっていたのです。

やはり天皇の勅命なくしては大規模な推進力は得られないのですが、それでも八幡宮の歴史上活躍する人たちが現れます。

和気清麻呂は宇佐八幡宮神託事件で有名です。宇佐に行って八幡神の託宣を持ち帰って称徳天皇に報告し、道鏡が皇位に就くことを阻みましたが、道鏡の怒りを買って大隅国に流されました。和気清麻呂とその姉がいくつかの八幡宮を創建しています。

●西暦769頃 葛原八幡神社(豊前国)
●西暦771 宇佐八幡宮(備前国)
●西暦777 御調八幡宮(安芸国) 姉が創建
●西暦784 八幡和氣神社(備前国)


【坂上田村麻呂】

次に活躍するのが征夷大将軍の坂上田村麻呂です。古い八幡宮の由緒に坂上田村麻呂は非常に多く登場します。

●西暦801年 鎮守府八幡宮(陸奥国)
●西暦782-806年 屯岡八幡宮(陸奥国)
●西暦782-806年 八幡神社(能登国)
●西暦807年 五泉八幡宮(越後国)
●西暦807年 矢津八幡宮(越後国)

最終的な一国一社八幡宮・国府八幡宮のリストに残った八幡宮についてはこの5社だけだと思いますが、調査対象とした八幡宮には坂上田村麻呂が創建した神社がまだいくつもあります。

要するに戦勝祈願のために八幡神を祀ったのですが、戦地に向かう途中で創建、戦地に近い場所に創建、戦地からの帰途で創建という3つのパターンがあります。

後の時代に、源頼義・義家がやはり奥州平定のために全く同様にたくさんの八幡宮を創建しますが、平安後期の話なので彼らが創建した八幡宮は最終的なリストには残っていないのです。

それでも、八幡宮の歴史の中で、由緒書に最も多く登場するのはおそらくは源義家です。石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎の通称でも呼ばれ、そして、非常に多くの八幡宮を石清水八幡宮から勧請して創建しています。


【行教】

次の大きなイベントは石清水八幡宮の創建なのですが、驚いたことに勅命によって推進されたわけではないのです。

行教というのは奈良の大安寺の僧侶で、清和天皇の即位を祈祷するために宇佐神宮に派遣されていたのですが、そこで八幡神から京の都で国家を守護する旨の神託を受けます。それを朝廷に報告した後、あらためて清和天皇からの勅命で石清水八幡宮が創建されることになったのです。

そこで、行教本人が宇佐神宮の分霊を石清水八幡宮に運ぶのですが、その途中に立ち寄った場所にいくつかの八幡宮が創建されています。

●西暦859年 津田八幡神社(豊前国)
●西暦859年 亀山八幡宮(長門国)
●西暦859年 琴崎八幡宮(長門国)
●西暦859年 新宮八幡神社(播磨国)
●西暦859年 福良八幡神社(淡路国)
●西暦859年 駒宇佐八幡宮(摂津国)

宇佐から京都に向かう途中の経路という面で、淡路国の福良八幡神社だけ少し疑問です。この翌年の860年に行教は淡路に訪れるので、由緒がそれと混同しているのか、それとも由緒通りなのかは不明ですが、正しいとすると淡路には寄り道しているように見えます。

勧請の際の経路が陸路か海路かという興味もあるのですが、宇佐神宮は八幡浜から船を利用して勧請していますし、現代と違って必ず船が必要になる区間がありますので、普通に両方を組み合わせるようです。福良八幡神社の由緒では福良港に寄ったとしています。

●西暦859 離宮八幡宮(山城国)
●西暦860 石清水八幡宮(山城国)

そして、行教はなぜか淡路島に来島します。

●西暦860 賀集八幡神社(淡路国)
●西暦859-877 亀岡八幡神社(淡路国)

この2社は今度は石清水八幡宮からの勧請です。それ以前のは宇佐から京都に向かう途中ですから、宇佐神宮からの勧請です。


【石清水八幡宮創建のその後】

石清水八幡宮の創建後、全国的に石清水八幡宮からの勧請が行われます。もちろん、たくさんありすぎて書ききれません。比較的、石清水八幡宮の創建直後のものは次のような八幡宮があります。

●西暦860 郊戸八幡宮(信濃国)
●西暦861 松尾八幡宮(土佐国)
●西暦866 麻良田神社(丹後国)
●西暦871 片山八幡社(尾張国)
●西暦881 高津八幡宮(丹後国)
●西暦883 須受八幡宮(能登国)
●西暦889-898 葛飾八幡宮(下総国)
●西暦891 大塩八幡宮(越前国)

石清水八幡宮からの勧請はまだまだあり、そして、ずっと後の時代まで石清水八幡宮からの勧請というものが行われていきます。石清水八幡宮の創建は全国に八幡宮をおくという一国一社の構想を実現するうえでも、単に全国的に数多くの八幡宮が創建されるうえでも重要な出来事だったと思います。

ただ、石清水八幡宮の創建がこれほどまでに遅いことは謎であり、この問題は解決していません。山城国は平安京遷都以前から重要な国だったでしょうし、平安京遷都から考えても随分時間が経過しています。山城国には石清水八幡宮創建以前の809年に空海が宇佐神宮から勧請して平岡八幡宮を創建していますので、とりあえずそれで良しとしたのでしょうか。

聖武天皇の意向が歴代の天皇に受け継がれて、何度か勅命を出していれば、もっと早くに一国一社の構想は完結したと思うのです。

ですが、実際にはそうではなく、坂上田村麻呂や行教などの活躍によって、ある意味では偶然に一国一社構想が進展していったという面もあるかと思います。

さて、結局いつ一国一社の構想が完結したのでしょうか。

今回の調査を行っていて、八幡宮の多い国もあれば、ほとんどないような国もあり、一国一社の勧請が早い国もあれば、遅い国もあると、当然の感想があるのですが、八幡宮がなかなか浸透しなかったという印象がある国、実際に八幡宮の創建が遅かった国は以下の通りです。

○日向国
○肥後国
○大隅国
○薩摩国

○壱岐国
○佐渡国
○隠岐国

○因幡国

○伊勢国
○志摩国

南九州は鹿児島神宮の宇佐神宮に対する対抗意識、正八幡宮問題などがあって、なかなか浸透しなかったのかもしれません。

藤崎八旛宮(肥後国)、新田神社(薩摩国)、鹿児島神宮(大隅国)が八幡五所別宮として創建されたり宇佐神宮や石清水八幡宮から勧請を受けたのは931~935年と非常に遅いです。

調査途中では一国一社はそれでもこれらの神社かと思ったのですが、日向国は750年の今山八幡宮、肥後国は709年の山北八幡宮、大隅国は708年の投谷八幡宮、薩摩国は702年の加紫久利神社があり、八幡宮が浸透しなかったのは確かと思いますが、一社だけなら比較的早くから八幡宮が存在していたようです。

壱岐国は由緒・創建不詳の八幡宮しかなく、全く調べようがないのですが、本宮八幡神社のみ不詳ながら延暦年間(782-806)の創建説があるのと、近くの対馬国は早い段階で厳原八幡宮神社が創建されていますので、そこまで遅いということはないように思います。

隠岐国は903年の国府尾神社、佐渡国は961年の久知八幡宮で、離島が遅いのは多少仕方がない面もあるでしょう。

因幡国は由緒のはっきりしている八幡宮自体がほとんどなく、一国一社の倉田八幡宮ですら記録に現れるのが1208年です。その時には大社だったようですから、平安中期から後期くらいには創建されているとは思います。

伊勢国は伊勢神宮の影響なのか八幡宮が少ないと思いますし、志摩国も国土が狭いとはいえ、八幡宮の割合が明らかに少なく、一国一社の候補社すら見つけるのが大変です。

伊勢国は津八幡宮の由緒に「建武年中(1334-1336)足利将軍の宿願に依り伊勢国に初て八幡宮を建立」と書かれていて、それほどまでに古い八幡宮がないのですが、ただ一社だけであれば醍醐天皇が神託により宮中に祀られていた石清水八幡宮の分霊を遷座した江島若宮八幡神社があって、897-930年(在位期間)の創建です。

志摩国はほとんど記録がありませんが、津八幡宮が伊勢国初の八幡宮と思われていたことから考えて、それより後だと思います。志摩国で唯一記録が残っている安乘神社が1592年頃記録に登場しますので、推測にはなりますが、志摩国が最後に一国一社八幡宮が創建された律令国で、それは1336-1592年の間くらいのことだったのではないでしょうか。

因幡国と志摩国を除けば、南九州であっても離島であっても、最低一社は西暦1000年以前に創建されていそうです。因幡国も西暦1000年から1150年くらいには創建されていそうで、最後に中世になって志摩国に八幡宮が創建されて、聖武天皇の一国一社八幡宮の構想が完結したのではないでしょうか。



■ おことわり


本稿はタイトル通りメモであり、書籍や論文の完成原稿ではありません。

頻繁に書き直していますし、加筆・訂正もしています。

調査が進むにつれて、新たに色々なことがわかってきて、軌道修正しなければならない場合も多々あります。

しかし、私としては調べたこと、そこから判明したこと、考察・議論をいったん書き留めておく場所が必要で、それがこのメモです。

もちろん、間違いがある場合もあるでしょうし、また間違いに気づいても全てを修正するのは煩雑という場合もあります。一々訂正しない場合もありますので、予めご了承下さい。

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最終更新日 [2023.03.21]

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